ロータリークラブの卓話ご依頼下さい
ロータリークラブで卓話の講師をさせていただいています。最近お招きいただいたのは名古屋ロータリークラブ、名古屋中ロータリークラブ、名古屋北ロータリークラブ、名古屋和合ロータリークラブなどです。
ロータリークラブで話す時のテーマは、最近は古地図を手にした歴史モノが多いです。名古屋の旧町名復活を目指して、名古屋の歴史、旧町名の面白さを語ります。
ロータリークラブの皆様は、名古屋の歴史に興味を持たれている方が多いはず。是非北見昌朗に卓話をご依頼下さい。
名古屋の歴史大発見! 旧町名復活を目指して
■■江戸時代の名古屋の生い立ちについて■■
家康公が清洲越しをしましたが、清洲城があるところが海抜5メートル。名古屋城があるところは15メートル以上あります。名古屋城の場所に立てば全部見渡せるポイント。つまり、5メートルから15メートルへ高台移転したのが清洲越しです。
駿河湾沖の東海大地震というのは160年前、嘉永7年です。その津波というのは、堀川まで襲来しました。尾頭橋まで達して、以西を冠水した。つまり、伊勢湾台風の冠水エリアと全く同じです。そういうようなことがあって、それで名古屋城の北側の名城公園、これは巨大な沼でした。そうすると最北から攻め入るときに、堀川があるため攻められない。
名古屋は非常に攻めにくい城塞都市だったのです。
古地図を見ると笹島に「支那忠」とありますが、これは乃木大将が泊まった旅館です。明治19年に名古屋駅ができ、あたりは葦がしげる沼地でした。地盤の悪い場所です。東の方を見てみるとチンチン電車が走っていたのがわかります。
蒲焼町は今の「錦通」のことです。一説によると、名古屋城、築城の際に、職人さんたちが、蒲焼を食べる店が一杯並んでいたといわれています。
世の中、伝馬という場所が多いですが、ここは飛脚の場所です。江戸時代はこの伝馬町と本町がクロスするところ、ここに「札の辻」という立て札があります。伝馬町を本町からちょっといきますと名古屋銀行(東海銀行の前身の1つ)があります。場所は、現在の八木兵本店です。これをつくったのはタキヒョーの滝さんです。
その下に明治銀行がありますが、この銀行を作ったのは奥田正香さんです。この奥田正香さんは20年以上、商工会議所の会頭をやったドン中のドンです。既存の勢力に対抗する意味で作ったのが明治銀行。現在は、八木兵さんの伝馬町支店になっています。
そこからずっと西を見ていきますと三井銀行があります。さらに、第一銀行があり、関戸銀行があります。この伝馬町は、明治名古屋のウォール・ストリートでした。
■■豊田佐吉翁にまつわる明治時代の名古屋の話■■
現在のテレビ塔の西側に、たての街がありますが、そのもう1ブロック向こう側が朝日町です。ここは、豊田佐吉翁の創業の地です。佐吉翁は慶応3年生まれ。湖西市で貧しい農家に生まれ、お母さんが機織をやっていました。その、機織を自動化するということで、織機の開発が始まるのです。湖西で過ごし、半田の乙川というところに行き、そこで織機の開発にめどをつけます。これで俺もいよいよ創業するんだ、といってスタートを切ったのが、この朝日町です。翌年に移転したのが現在のテレビ塔の南側、宝町。
次に引っ越したのは、現在も残っている武平町です。桜通にあるトヨタホームの東側にマンションがあります。そこが武平町工場の跡地です。そこは300坪の敷地がある本格的な工場でしたので、そこから世界にめがけて織機の輸出が始まりました。非常に一躍脚光を浴びたものですから、大隈重信など、全国の著名人がどんどん視察に訪れた場所です。
佐吉翁というのは、商売人ではありませんので特許権、知的財産権などというような発想はあまりない。実際には開発にお金を使いすぎまして、豊田式織機で解任になってしまいました。そこでアメリカに行って見たのが、自動織機だったのです。今度は、大手の力を借りずに、自分で借金してやるんだということでやったのが、栄生のノリタケの場所だったのです。これができたのは大正元年ですからすでに彼は45歳。当時の45歳というのは、感覚としては今の55歳よりもっと上です。60歳近くの人が、人生再チャレンジの場所だったのです。清水口のところにダイキン工業がありますがそこが豊田佐吉翁の邸宅跡地です。
道をまたいで、豊田利三郎さんという名前があります。この方は、娘婿です。佐吉翁は発明ばかりやりますので、実際に豊田という会社の実質的な切り盛りをしたのはこの利三郎さんです。その南側にあるのがソニーの盛田さんのご自宅。そのまた横になるのが、豊田喜一郎さんです。
喜一郎さんを生んだのは、たみという人なのですが、佐吉翁がどんどんと借金をするものですから、愛想を尽かして出ていったのです。当時、少年だった喜一郎は湖西にいたのですが、佐吉翁が再婚し、呼び寄せて一緒に暮らすようになったのが武平町の自宅兼工場です。
佐吉翁は特別な人望、人徳を持っている人で、彼を応援しようとする人がどんどんやってきました。そのうちのひとりが服部兼三郎さんという人です。この人は繊維の業界で、一代でのし上がっていった人です。彼は祖父江重兵衛商店(糸重)の丁稚として働き、娘までもらいながら、次期後継者の期待を受けるという大変なやり手な人でしたが、飲む打つ買うの、やり手だっために、追放されてしまい創業したのは八百屋町です。ところがそこが丸焼けになって、移転したのが宮町。そこで服部商店として、大陸に糸を売りまくって大成功を収めるわけです。
その服部商店で丁稚小僧だったのが、後のトヨタ再建の男・石田退三さんです。石田退三語録の中ででてきますが、ある日、みすぼらしい格好をしたオッサンが、ぬおっと入ってきた。挨拶もせずにただ立っている。それを見つけた主人が、「さあさあ、どうぞ」と通した。主人は「今日はいかほど?」と聞いたら、「今日はちいと高くてすまんが25万円ばかし貸してくれ」といったそうです。当時の25万円というのは、現在では1億を超える。それを、借用証書も書かずに、ありがとうとも言わずに出ていったそうです。これを見て肝をつぶした退三さんは、「あの人、どういう人ですか?」と聞いたら、「お前、よく覚えておけよと、あの人は豊田佐吉さんといってな・・・」といったエピソードがあるのが、ここの場所です。
ところが第一次世界大戦があって糸が暴落してしまった。兼三郎さんは自殺に追い込まれてしまったのです。その葬儀委員長は佐吉翁です。その再建に取り組んだのが三輪常次郎。それが興和さんです。
名古屋には見れば見るほど変わった町名があります。町名は文化、歴史だと思います。だからなんとか町名復活運動をどうやって進めたらいいのか協力を仰ぎたいと思っています。
北見昌朗
ロータリークラブといいましても愛知県や名古屋市に沢山あります。北見昌朗は、次のような地域のロータリークラブからお招き頂ければ光栄だと思っています。
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名古屋みなとロータリークラブ
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名古屋ロータリークラブ
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名古屋栄ロータリークラブ
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名古屋錦ロータリークラブ
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名古屋空港ロータリークラブ
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名古屋守山ロータリークラブ
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名古屋昭和ロータリークラブ
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名古屋瑞穂ロータリークラブ
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名古屋大須ロータリークラブ
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名古屋中ロータリークラブ
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名古屋東ロータリークラブ
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名古屋南ロータリークラブ
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名古屋北ロータリークラブ
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名古屋名駅ロータリークラブ
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名古屋名南ロータリークラブ
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名古屋名北ロータリークラブ
ロータリークラブは、名古屋市外の愛知県下にも沢山あるようです。三河や尾張にも多数のロータリークラブがあるようです。ご依頼があれば、時間の許す限り、次のようなロータリークラブでも卓話をさせて頂きます。よろしくお願い致します。
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あまロータリークラブ
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安城ロータリークラブ
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一宮ロータリークラブ
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一宮中央ロータリークラブ
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一宮北ロータリークラブ
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稲沢ロータリークラブ
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岡崎ロータリークラブ
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岡崎城南ロータリークラブ
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岡崎東ロータリークラブ
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岡崎南ロータリークラブ
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刈谷ロータリークラブ
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犬山ロータリークラブ
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江南ロータリークラブ
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高浜ロータリークラブ
ロータリークラブの卓話において、名古屋の歴史の話をしながら、旧町名の復活の意義をお話ししています。町名復活の話は、実際には名古屋のほかの地域でも同様の問題が起きています。北見昌朗は足を伸ばして、次のようなロータリークラブも訪問させて頂ければと思っています。
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三河安城ロータリークラブ
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春日井ロータリークラブ
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小牧ロータリークラブ
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常滑ロータリークラブ
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瀬戸ロータリークラブ
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瀬戸北ロータリークラブ
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西春日井ロータリークラブ
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知立ロータリークラブ
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津島ロータリークラブ
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東海ロータリークラブ
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東知多ロータリークラブ
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半田ロータリークラブ
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尾西ロータリークラブ
ロータリークラブは社会奉仕の団体です。北見昌朗は講師料をもらっても、すぐその場で寄付していますので、お返ししますので、予算はお気にされないで下さい。ロータリークラブは社会に貢献する紳士の集まりです。お招き頂くだけで、光栄です。下記のロータリークラブも対象にさせて頂きます。
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尾張旭ロータリークラブ
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豊山城北ロータリークラブ
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豊川ロータリークラブ
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豊川宝飯ロータリークラブ
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豊田ロータリークラブ
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豊田三好ロータリークラブ
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豊田西ロータリークラブ
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豊田中ロータリークラブ
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豊田東ロータリークラブ